伊東歌詞太郎さんの楽曲『記憶の箱舟』の歌詞について思ったことを書く。

 この曲はアニメ『デカダンス』のED曲である。作詞・作曲・ボーカルすべて伊東歌詞太郎さんによる。アニメを見ていた3か月間は歌詞について想いを巡らす余裕がなくて、今やっとちゃんと歌詞を見て聴いて、いろいろなことを思った。自分なりの歌詞の解釈を書こうと思う。

 JASRACのデータベースJ-WIDによると、この楽曲の著作権はJASRACが管理しているようなので、ライブドアブログのガイドラインに従って割と自由に書ける。自由に書くぞー

 歌詞全体はこちら(Uta-Net)


歌詞に登場する「自分」から見た「あなた」

 この歌詞には「自分」と「あなた」が出てくる。それ以外の人物として「すれ違う人」も出てくる。このうちとても重要なのが「自分」と「あなた」。この歌は「自分」から見た「あなた」のことを歌っている

 歌詞の中で「自分」が出てくるのは1番の以下の部分。

いつだって いつだって 自分らしさとか
見つからないもの見つけようと
繰り返す毎日を愛せたなら ささやかに願う

勿忘草に名前を
強がりな自分にさよならを
今より少しでも強い自分なら

 「~なら」っていう言い方がまさにこの「自分」の願い。そしてその願いが、続くサビでは「夢」だと言われる。「自分」はこう願っているけど、「あなた」はそれを夢だと笑う。実現不可能な願いなのか。叶わない夢なのか。サビの歌詞を見ると、そんなことはどうでもいい問題だと分かる。

追いかけるほどに遠くなる
空の青さのような夢だと
あなたはまた笑うのかな?
いいや一緒にいてくれたら

 この「いいや」っていうのはたぶん「良いや」っていうことで、たとえ「自分」の願いとやらが、なかなか実現できなくても、現実が思い通りにいかなくても、あなたが一緒にいてくれたら良い。それが「自分」から見た「あなた」への想いで、辛いこともある世界で「あなた」に光を見出している、そんな歌詞だというのが私の解釈。


綺麗な世界

 歌詞の中に「綺麗な世界」という言葉が3回出てくる。1番と2番の冒頭でそれぞれ1回ずつ。歌詞の最後でもう1回。この「綺麗な世界」をどう解釈するかが難しい

 冒頭の部分はこう。

こんなに綺麗な世界は 忘れてしまいたいほどだな
ナイフで切り取れそうなくらい 静かな夜だから

 なんだか違和感のある歌詞。綺麗だったら、ふつうは忘れてしまいたいなんて思わないんじゃないだろうか。「ナイフで切り取れそうな」というのもなんか物騒な感じがする。

 忘れてしまいたいのは、綺麗な世界に見えても、実際は綺麗じゃないこともたくさんあるから。「ナイフで切り取れそうな」は絵になる綺麗な夜景を想像させるけど、同時に「自分の命をこの世界から切り取る=死ぬ」とも解釈できる。一見綺麗に見えているこの世界でも、その裏には忘れたい嫌なことや、見たくないものが隠れている。2番の歌詞にある「傷つくこととか 悲しくなることばかりでも」「間違いだらけの日々だけど」とかその辺りからも感じられる。辛い夜にはすべてを忘れたくなることもある。そんな風に自分は解釈した。


 2番の冒頭は

本当に綺麗な世界だ 涙が止まらないほどだな
寂しい夜を超えた先に あなたに会えるから

 「本当に」の解釈に悩む。1番では「綺麗な世界」に見えても、その裏に見たくないものも隠れているという風に解釈したけど、ここでも意味はほとんど同じだとしたら「本当に」はただの強調表現ということになる。1番の「忘れてしまいたい」にとどまらず、「涙が止まらないほど」の辛い夜。それでもその先に「あなた」の存在を感じられる。私の解釈だと、この歌は究極的には全部「あなた」に帰するところがあるので、この解釈も良い。

 もう一つの解釈は、1番の「綺麗な世界」が「忘れてしまいたいほど」なのに対して、こちらは本当に本当の意味での「綺麗な世界」だということ。だとしたら、「あなたに会える」ことが嬉しくて泣いているのかな。今泣いているわけじゃなくて、あなたに会えたときには嬉しくて涙が止まらないほどになる。これは次の「あなたはどこにいるのか」の解釈にも関わってくるので、こっちの解釈もアリ。どちらにしても全体的な「あなた」に光を見出しているという解釈は変わらない。


「あなた」はどこにいるのか

 最後のサビで「一緒にいてくれたら」を2回繰り返している。なんか、繰り返すと「儚い」感じが出るなぁと。あなたが一緒にいてくれたらと願うけど、実際には、そばにいないときもある。あるいはもしかしたら「あなた」は遠いところにいるのかもしれない。実際にはなかなか会えないけど、現代なら会えなくてもコミュニケーションを取る手段はいくらでもある。いつもそばにいるわけじゃないからこその、「一緒にいてくれたら」という願いなのかもしれない。

 そう考えると、2番の冒頭で「涙が止まらない」ほど泣く理由が「あなたに会えるから」という解釈もできる。「あなたはまた笑うのかな」も、今は隣にいない「あなた」のことを想っている感があるし…。あとで書く『デカダンス』とのつながりでも、ナツメとカブラギが一緒にいられなくなることもあったから、この解釈とぴったり合う。いろいろな意味で良いなと思う。


タイトルの意味

 「箱舟」は「入れ物」だと思う。「記憶の箱舟」だから、箱舟に入れられる物は「記憶」。歌詞には「忘れてしまいたいもの」と「忘れたくないもの」が出てくる。

 忘れてしまいたいのは冒頭の部分で、一見綺麗に見えるこの世界。忘れたくないことを直接言った歌詞はないけど、1番に出てくる「勿忘草」が、忘れたくないものがあることを示していると思う。何を忘れたくないのかというと、これまた直接言ってはいないけど、例えば「ささやかな願い」や「あなた」のことだろうか…。

 というわけで無理やり「あなた」につなげてみたけど、正直あまりしっくり来てない。先に歌詞に解釈を付けちゃったから、タイトルとの整合性を保つのが難しい…! 最初からタイトルも含めて考えるべきだったか。うーん、でも次に書くこともやっぱり「あなた」に関わってくるし、自分にはこの見方しかできない。この見方がベストなはず。


『デカダンス』EDとしての見方

 アニメのOPやEDで使われると、どうしても作品とのつながりを考えてしまう。最初に書いたようにアニメを見ている間は歌詞について考える余裕がなかったけど、一つだけずっと想っていたことがある。サビの歌詞の「一緒にいてくれたら」っていう部分が、この部分がナツメからカブラギへの気持ちに重なって、好きだなぁとずっと想ってた。

 歌詞に出てくる「自分」と「あなた」を『デカダンス』の登場人物に当てはめてみる。カブラギが「自分」でナツメが「あなた」とも考えられるけど、それよりも個人的にはナツメが「自分」でカブラギが「あなた」っていう解釈のほうが好き。その根拠が「一緒にいてくれたら」という歌詞。

 カブラギにとってナツメは生きる希望のような存在だった。ただカブラギの想いは「ナツメさえ生きていてくれれば」に近かったと思う。ナツメがナツメらしくいられれば、最悪自分はいなくてもいいと。カブラギはナツメに救われ、「生きる」ことも「死ぬ」ことも自分で選ぶ自由を得た。ただシステムに従って生きるんじゃなく、システムに逆らっても、ナツメを守るために死ぬのならそれでもいいと思っていた節がある。

 一方で、ナツメもカブラギを心の支えにしていた。カブラギがバグとして処理されナツメの前から消えたとき、ナツメは隠していた弱さを見せた。別の素体を使ってログインしたカブラギの前で泣いた。それを見て、あぁナツメにはカブラギが必要なんだと思った。ナツメは心の中では、どんな願いよりもまず「カブラギに一緒にいてほしかった」んだと思う。

 全部完全に一致させようとすると難しい。でもナツメもこの歌詞の「自分」と同じように願いを持っていたし、強くなりたいと思ってたし、何より「一緒にいてくれたら」と思う相手がいた。そこを重ねられただけで十分。この歌単体でも良いし、『デカダンス』のEDとしても良い楽曲だと改めて思った。


まとめ

 この『記憶の箱舟』の歌詞に対する私の解釈をまとめると、

  • 「自分」から見た「あなた」のことを歌っている
  • 辛いこともある世界で「あなた」に光を見出している
  • 2番冒頭の「綺麗な世界」の解釈は2つある
  • 「あなた」がどこにいるのかも2通りの解釈ができる(近いか遠いか)
  • タイトルの解釈についてはあまり自信がない
  • 『デカダンス』EDとしてもとても良い歌詞である

 こんな感じかな。特に「あなた」に光を見出しているっていうところが好き。誰かが誰かのことをすごく想っているっていうのが、アニメや音楽のテーマとして大好きで、この歌で「あなた」への想いが特に強く感じられる「一緒にいてくれたら」って歌詞がめちゃくちゃ好き

 好きな部分を中心に語りたかったからこういう書き方にしたけど、「自分」の願いとか迷いとかが歌詞に出てくるのを見ると、とりわけ「あなた」にこだわることもない。「あなた」にこだわらなければ、タイトルの意味ももうちょっと良い解釈ができるかもしれない。今は「あなた」に焦点を当てた見方が良いなと思うけど、何年か後には別の解釈をするかもしれない。ブログに書いておいたら消さない限りは残るから…これが"今の"自分の気持ち、ということで。